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ライナックス・ホームズの事件簿
元海軍軍医・医学博士アイビィ・M・ワトスンの回想録




   ラウンドボンドの謎

〜 メール文字化け事件 〜



●美しき旋律
 ある日、わが友ライナックス・ホームズは朝食をすませるとソファに身を丸めて横たわりながら、長い時間をかけて新聞広告欄に眼を通していた。やがてそれにも飽きたのか、部屋の隅に立て掛けてあったチェロを部屋の中央までひっぱり出してくると、鋭い奇声を重量挙げ選手のように発して、一気に肩の上まで持ち上げた。勢いあまって二、三歩ふらふらしたものの、たたらを踏んでなんとか持ちこたえると、あごと左肩でかろうじてチェロのボディを支え、腰を不自然に引きながらむりやり左手を伸ばした。やがて、長い弦を巧みに使い、その恰好からはとても想像できない美しい旋律を奏ではじめたのである。
 彼は、超人的な姿勢をなんとか保ちつつ一曲弾き終えると、満足げにチェロを床に置き、大きく伸びをした。
「大丈夫かい?」
 声をかけると、ホームズはあごにのこったエンドピンの痕を左手でさすりながら、意外なほど厳しい顔をして言った。
「ワトスン君。きみは以前からこの楽器をチェロだと思いこんでいるようだが、常々言っているように、どんなに信じがたいことであっても、他の可能性がまったくないとなればそれが真実なんだ。たとえぼくが最高の演奏者だとしても、チェロでサラサーテのチゴイネルワイゼンを独奏できるわけがない。つまりこの名器はヴァイオリン以外の何ものでもないということさ! まぁ、この名器のサイズがいささか大きい点は認めるが、それもこの真実を前にすれば些細なことにすぎない!」
「いや、ぼくはその…」私はいささかうろたえ気味に言った。「無理な演奏姿勢のせいで、きみがぎっくり腰になることを心配しているだけなんだよ。せめてヴィオラなら腰の負担が少なくてすむと思うんだがどうだろう?」



●不審なメール
「ふん。ヴァイオン独奏曲をヴィオラで弾けというのかい! 君はあいかわらずだな。しかし、こうも事件がないと身をもてあましてしかたがない。依頼人が呼鈴を鳴らすこともなければ、電報や手紙の依頼もこないのだから、このままじゃ旧癖に手を出してしまいそうだよ」
「メールはチェックしてみたのかい?」私はあわてていった。
「ふん。メールでの依頼なんて、たとえ届いていたとしても『メールの使い方を教えてください』とかいったろくでもないものだけさ。パソコンなんかここしばらく電源も入れていないよ!」
 ホームズは、パソコンや携帯電話といった文明の利器にはほとんど興味を示さなかったが、ロンドン警視庁のレストレード警部やホプキンズ警部のたっての願いを聞き入れてようやくiMacを購入したのだった。とはいっても、彼が自らパソコンを操作することはほとんどなかった。
 私は、テーブルのiMacの電源を入れると、Outlook Expressを起動してインターネットに接続した。
「おや、ホームズ。君宛のメールが届いているよ。ポーロックという人物からだが…」
「ポーロックだって! それなら前言撤回だ。彼からのメールとなると期待できるぞ。彼は、ぼくの目となって犯罪界の動きを見張っている男のひとりなんだ」
「でも、ホームズ。メールの内容がさっぱり分からないんだよ…」
 ホームズはソファからがばっと置きあがると、私の肩ごしに画面をのぞきこんだ。
20日、ビッグベン 。グロスター通りコールフィールド・ガーデン、目印は(水)。
「ますますおもしろくなってきたぞ!」ホームズは興奮に目を輝やかせながらいった。「そのメールの続報は届いていないのかい?」
「いや、この1通だけだ。でもヘッダーを調べれば、なにか情報が得られるかもしれない…」
 私は、Outlook Expressを操作して、メールのソースを表示させた。
「送信者はさっきもいったようにポーロックだ。件名はとなっているから、もともと何も書かれてなかったようだ。受信日時は、今朝の7時ちょっと過ぎ。おや、ホームズ! このメールはぼくにも送られているぜ。宛先にぼくのアドレスが併記されているんだ。でも、ポーロックなんていう人物に心当たりはないんだが…」
「ああ。それならぼくが頼んだんだ。自分でメールをチェックすることは少ないから、きみのアドレスも教えておいたんだ。なにか問題があったかい?」
「いや。べつにそれはかまわないんだ。ちょっとびっくりしただけさ」
「ほかになにか分かることは?」
「いや、それくらいだね。どうにも暗号を解く手掛かりにはなりそうもないよ」



●暗号の解読
「じゃあ、この文面だけでなんとか解読できないか、検討してみることにしようじゃないか。ワトスン君、きみはこの文面から何が分かる?」
「さっばりだよ」私は肩をすくめた。
「よく考えてみるんだ」
「そうだな。最初の『20日』は日付だろう。つまり今日のことだ」
「ほら。一歩前進したじゃないか。他には?」
「ビッグベンとコールフィールド・ガーデンというのはもちろん場所を示しているんだろうねぇ」
「なるほど、他には?」
「(水)は、水曜日を表しているんだろうが、今日は火曜日だ。そうなると最初の『20日』は今日の日付じゃないわけだ。ますます訳がわからんよ!」
「いいかい、ワトスン。(水)という文字を先入観にとらわれずにあるがままに見るんだ」
「水…かい?」
「そう。水が囲まれている場所だよ。これでぼくたちは解読に欠かせない三つの重要なキーを手に入れたことになる。これだけヒントに恵まれて、なかおつ暗号文が示す場所を特定できないとしたら、ぼくはいますぐ廃業を考えるべきだ。ねぇ、ワトスン。ロンドン市内の地図を思い描いてみたまえ。議事堂大時計(ビッグベン)とコールフィールド・ガーデンの間で、なにか水に囲まれた場所を思いつかないかい?」
「サーペンタイン池だ!」私は友人の優れた分析能力に驚嘆しながらいった。
「あと一息だ、ワトスン」ホームズはやさしく微笑みながらいった「(水)という文字をもっと素直に分析するんだ。この文字のかたちだと『蛇のように曲がりくねった』を意味するサーペンタイン池よりもっとふさわしい場所があるだろう」
「そうか、分かったぞ!」私は彼の鋭敏な推理力にほとほと感心しながらいった。「サーペンタイン池の隣のラウンド・ポンドだ。文字どおり丸い池なんだから、間違いない。それにしても、よくそこまで分かったね
「いたって簡単なことさ。むしろ問題は、ラウンド・ポンドが何を意味しているかということだ。できれば、もう少しぼくに考える時間を与えてくれたまえ」ホームズは肘掛椅子に深くすわりなおすと目を閉じた。
   ロンドン略図



●犯人はあいつだ
 私は、ほかにすることもなかったので、自分宛のメールをチェックすることにした。往診鞄に入れてあるThinkPadを取り出し、携帯電話をUSBケーブルでつないで、Outlook Expressを起動した。
 メールボックスには、ポーロックが発信したメールが届いているだけだった。そのメールを開いて、私は愕然とした。
「ホームズ!」私は彼が他人に思考を中断させられることをなによりも嫌っていることをよく知っていたが、このときは声をかけずにはいられなかった。「ぼく宛に届いたポーロックからのメールなんだが、きみに届いたものと内容がちょっと違うんだ…。」
「なんだって!」ホームズは勢いよく立ち上がって私のThinkPadをのぞきこんだ。
20日、ビッグベンⅨ。グロスター通りコールフィールド・ガーデン、目印は④。
「ねぇ、ホームズ。このメールを素直に読むと、議事堂大時計の鐘が9時を告げるときに、コールフィールド・ガーデンの④という目印がついている場所で何かがあるというふうにとれるんだが、どうだろう? 君宛のメールが暗号のように見えたのは、文字化けとかそういった問題じゃないのかなぁ」
「文字化け? 何だいそれは」
「メールの表示がおかしくなって、意味のある文章として読めなくなることさ」
 ホームズは指先を山型に突き合わせて考え込み、やがて口を開いたが、それは私にはとても想像できない内容であった。
「ははん。それで犯人が分かったぞ。これだけ狡猾で精緻な犯行を計画し、実行しえる人間は、ロンドン広しといえども一人しかいない。そう。モリアーティ教授だ! きみのいう文字化けこそ、その動かぬ証拠さ! われわれを混乱させようとしているにちがいない。彼は、ポーロックがわれわれの協力者であることをきっと見抜いたんだろう。ワトスン君、ずぐすしてはいられない。いますぐ出かけよう」
「それじゃあ、ラウンド・ポンドの謎は解けたんだね」かくも見事な結論に達したホームズの才能に、私はいまさらながら感嘆て聞いた。
「ああ、たったいまね。謎を解くには、相手の知力の程度に合わせて考えることが何よりも大切なんだが、犯人がモリアーティー教授とわかれば、彼のやり口は容易に推察できる。詳しいことは馬車の中で説明しよう」



●鮮やかな推理
 通りに出て二輪馬車を拾うと、ホームズは「馭者君! 地下鉄のウェストミンスター駅に急いでくれ!」
 馬車の中で、ホームズはじっと考え事をしていたがやがて口を開いた。
「きみはゴルフをすることはあるかい?」
 あまりにも唐突な質問にいささか面食らったが「ああ。たまにはね」とこたえた。
「それならぼくの結論に納得してくれるだろう」
「あの暗号が、なにかゴルフに関係するとでも言うのかい?」
「ああ、じつに巧みなものだよ。ラウンド・ポンドそのものが暗号だったんだ」
「どういうことだい?」
「ラウンドという言葉からきみは何を連想する?」
「まぁ、丸いということかな。でも、きみはゴルフのラウンドだというのかい?」
「理想的な推理家なら、あのメールを一瞥しただけでたちどころにこの暗号を解いたはずなんだ。すべてのヒントが目の前にあったのだからね。
 ぼくは最初、ラウンド・ポンドが1ポンド硬貨のことを示しているんじゃないかと考えてみた。“丸いポンド”なんだからね。1ポンド硬貨なら、グリーンのティマークに使うこともあるだろう。あらゆるヒントがゴルフを指し示しているということさ。では、1ポンド硬貨が議事堂大時計やコートフィールドとどう関係するのだろう? 1ポンドで行ける距離なのか? それとも別の意味があるのか? そこまで考えて、内側環状線に思いいたったんだ。地下鉄の環状線さ。ビッグベンの最寄りの駅はどこだい?」
「どこだろう。ウェストミンスター駅かな。そうか。それでウェストミンスター駅に向かっているわけなのか」そのとき、ふと別の考えが私を襲った。「でも、どこで降りるんだい? 環状線は2シリングの定額料金だぜ。1ポンドもかからないよ。それに内回り、外回りのどっちなのかも分からないじゃないか」
「だからラウンドなのさ。どちら回りなのかという点については、君は、今年の全英オープンのセントアンドリュース・オールドコースが、時計の反対回りだっていうことを知らないというんじゃないだろうね」
「そうか。ウェストミンスター駅から時計回りの反対でラウンド数だけ進めばいいわけか。18番目というと、どこになるんだろう」
「72番目だよ。インとアウトを二回まわるからね。それに今年はプレーオフまでもつれたから、その数も足すべきだろう」
「ちょっと待ってくれ」私はWorkPadを取り出し、地下鉄路線図を起動すると駅数を数えてみた。それならグロスターロード駅だよ。素晴らしいよ、ホームズ! いっきに謎が解けたじゃないか」
「ほんの初歩さ」私の賞賛に対して、ホームズはいたって気のないふりをしたが、私には彼が内心おおいに満足していることが分かった。



●ラウンド・ポンドの捜索
「でも、なぜグロスターロード駅に直接行かないで、ウェストミンスター駅に行くんだい?」
「なかなか鋭いじゃないか。でも、こういうときには犯人と同じ行動をとってみることが大切なんだ。ショートカットは便利だが、意外な落とし穴が潜んでいることもあるからね」
「なるほどね」
「いや待てよ。ワトスン、君はなかなかいいところに気づいたじゃないか。念のためにラウンド・ポンドを回っていくことにしよう。そこがわれわれの推理の出発点なんだからね。おい、馭者君。オックスフォード通りを右に折れて、ケンジントン・ガーデンに向かってくれたまえ」
 それっきりホームズはだまりこんでしまったので、私は座席に背にもたれながら、通りを流れる風景をぼんやりながめることにした。馬車は、ベイズウォーター通りを進んでいった。
 公園の入口で馬車を捨てると、私たちは前方に見える池に向かって歩いていった。池は、普段と変わらない朝のたたずまいを見せていた。
「ホームズ、何もおかしなことはないようだが…」
「よく観察するんだ。見落としがあるかもしれないからね」ホームズはじっと考え込んでいたが、声をださずに歓喜の叫びを発すると、突然、地面にうつぶせになった。
「ワトスン。見つけたぜ」彼は立ち上がって、ズボンについた土をはらうと、右手の人差指と親指ではさんだ小さな丸く光るものを満足そうな顔をして示した。
「ホームズ、それは!」私は叫んだ。
「20ペンス硬貨さ。1ポンド硬貨なら一財産になったんだがね」ホームズはちらっと残念そうな顔をした。
「しかし、よく見つけることができたね」
「もちろん、探したからだ。休日にフィッシュ&チップスの屋台が出るような場所にはよく落ちているものさ。推理家にとっては当然の帰結だよ」
「なるほど! きみのいささか突飛な行動も、理由さえ教えてもらえれば深い意味があるということなんだ」友人の天賦の才能にあらためて私は驚嘆しながら言った。
「さて。見るべきものはすべて見たようだ。つぎの現場に行こうじゃないか」
 ちょうどそのとき、9時を告げる議事堂大時計の鐘の音がサーペンタイン池のはるか向こうから聞こえてきた。



●予期せぬ出来事
 ふたたび辻馬車を拾うと、われわれはグロスター通りに入っていった。車馬の波に乗り入れてしばらくすると、ある建物の前から男が猛烈な勢いで飛び出してきた。馬車は車輪を軋ませてとまり、その男を危うくかわしたように見えたが、窓から外をのぞくと意外なことに男はぞっとするほど血にまみれて倒れてていた。
 ホームズはひらりと馬車から飛び下りると「しっかりしろ! きみは運がいい。ぶつかった馬車に医者が乗っていたんだからね」と強い口調で語りかけ、それから私のほうを振り向いて「ワトスン君、なにをぐずぐずしているんだ。きみの出番だ」と叫んだ。
 馬車から降りて、様子を診ようとすると若い男は「いえ、大丈夫です。心配はいりません」そういいながら起き上がると、驚いたことにその場からあわてて立ち去ろうとした。
「いや、待ちたまえ! ひどい怪我をしているじゃないか」私彼の左手をつかんだ。
「本当に大丈夫なんです。もう行かせてください」男は意外なほど強い力で、私の手を振りほどいた。
「そういう素人判断が危険なんだ! このままじゃ失血死してしまうぞ」
「なんともないんです。だってこれは返り血なんですから!」男はそういい捨てると、反対側の路地に走り去っていってしまった。
「なんとも遠慮深い青年じゃないか」ホームズはあきれながらいった。「事件を追っている最中でなければ、無理矢理にでも君に治療してもらうんだが…」彼は冷徹な人間として世間では通っているが、ときには意外なほどの人間味を見せるのであった。
 私は、この事故について、あとから警察に証言を求められてもいいように現場の住所を記録しておこうとしたが、わざわざメモをとるまでもなかった。なぜなら男が飛び出してきた家の扉には、丸つきの4という数字が大きくチョークで描かれていたからだ。
 われわれは再び二輪馬車に乗ってウエストミンスター駅に向かった。思わぬ事故にあったうえ、環状線に乗って市内を三周ほどしたため、グロスターロード駅に着いたときには時計の針は十時近くをさしていた。
「これからどうするんだい?」私はホームズに聞いた。
「おや。あれはレストレード君じゃないか」ホームズがあごで示した先を見ると、地下鉄のホームに数人の警官をともなったレストレード警部が駅員から熱心に話を聞いているところだった。
 われわれに気づいた警部は「ホームズさん! どうしてここがわかったんですか」心底驚いたような顔をしていった。
「あなたにはさんざん驚かされてきたが、まるで魔法のようだ。じつはホームズさんが興味をもちそうな事件なんで、メールをさしあげようと思って、部下に赤外線公衆電話を探させていたところなんですよ。地下じゃ携帯電話が通じないものですからね」
「魔法なんかじゃないさ。今朝届いたメールの暗号を解いたら、この駅が示されていただけのことでね。それで何があったんだい?」
「どうにもこうにも、ダグラスという人物がこの真上のグロスター通りの自宅で殺されまして。ちょうど1時間ほど前のことです」
「殺人事件だって! 犯人の目星はついているのかい?」
「ちょうどその時刻に現場で、血まみれの通行人といい争っている二人組の紳士が目撃されています。その二人は、辻馬車に乗ってウエストミンスター方面に向かったということなんで、彼らの目撃者を探しているところなんです」
「二人組の紳士?」
「ええ。目撃者の話によると、一人は中背のがっしりした体格で、あごが角張っていて、首が太く、口ひげをはやしていたということです。やせて背の高い連れの男は、その男のことを医者とか博士と呼んでいたそうですが…」
「ははん、想像していたとおりだ。その二人組の姿恰好はまるでぼくとワトスン博士のようだが、じつは彼らこそフリーズ・モリアーティ教授と彼の右腕のバグジャン・モラン大佐の変装にちがいない。もちろん彼らが犯人だ。血まみれの通行人というのは、危機をからくも脱したポーロックだろう。モリアーティ一味が犯人となれば、このライナックス・ホームズの相手として不足はない。さぁ、ワトスン君。ここの目撃者探しは警察に任せて、われわれはさっそく現場を調べることにしよう」ホームズはそう言うと、精気にみちた足取りで階段を上がっていった。
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