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シャーロック・パームズの回想
~ キンドルのささやき ~
■PDAの思い出
今から十年ほど前、わたしとパームズは、PDAと呼ばれる携帯端末に熱中していた。PDAは、住所録やスケジュールといった個人情報の管理だけでなく、アプリをインストールしてさまざまな用途に使えた。わたしは「青空文庫」の閲覧ソフトがお気に入りのアプリであり、往診の辻馬車の中で岡本綺堂の『半七捕物帳』を楽しんだものだ。
PDAは、パーム社の「パーム」によって広まったが、やがて幾つかのメーカーから端末が発売され、中でもソニーの「クリエ」はその機能の高さと使い勝手の良さから人気を集めた。
そのころ、パームズは諮問探偵の地位を確立していて、上流社会から相談を受けることもよくあったが、彼らの依頼を断ってさえ、報酬がさほど期待できないPDAがらみの事件にむしろ熱心に取り組んだ。
当時の彼の活躍は、PDAの普及と相まって世間の耳目を集め、わたしも『シャーロック・パームズの冒険』という題名で記録を公表したから、中には覚えている読者もいるだろう。
とはいえ、PDAの人気はさほど長く続かなかった。
携帯電話の多機能化・高度化が進み、そのうえスマートフォンが登場して、PDAは存在意義を失っていったのである。確かに、情報端末としても使える携帯電話があれば、PDAを一緒に持ち歩く必要はない。わたし自身も、スマートフォンを使うようになってからはPDAを持ち歩かなくなり、やがてまったく使わなくなってしまった。
そんな状況に嫌気がさしたわけでもあるまいが、その時期にパームズが突然失踪した。
過去にも彼は調査のために姿をくらますことがあったので、最初のうちはそれほど心配したわけではない。しかし、半年たち、一年たつとなると話は別だ。ロンドン警視庁の知り合いにも相談したが、警部たちの必死の捜索にもかかわらずシャーロック・パームズの行方はつかめなかった。
それから数年後、わたしはパディントン地区に開業することになり、パームズの兄の勧めもあって、懐かしいベーカー街の下宿を引き払うことにした。冒険とはまったく縁のない日常生活に戻っていったのである。
■古本屋巡りの楽しみ
開業して数年たった2010年の夏は、例年になく暑い日が続いた。わたしはインドでの軍隊経験のおかげで、30度くらいの気温なら苦にならない。しかし、その夏の暑さは格別で、わたしでさえ散歩に出るのを躊躇するほどだった。
そんな7月のある日。夕方から風が出てきて、いくぶん過ごしやすくなったので、ぶらぶらと散歩に出かけることにした。散歩のコースは特に決めていないが、その日は、チャリングクロスの古本街まで足を伸ばし、馴染みの古本屋を冷やかすことにした。
本屋は自宅の近くにも何軒かあるが、ベストセラーを平積みにするだけのような棚揃えであり、本読みの心をとらえる店ではなかった。それもあって、本を探すときは、散歩を兼ねてチャリングクロスの古本街まで出かけ、新刊書もその界隈の新刊書店で買うことが多かった。
古書店の棚は、店主の本への強い思いがにじんでいて、店ごとに独特の味わいがある。他では得られない心地好い時間を過ごせる上に、思いがけない掘り出し物に出合う幸せもある。「シュリーマンもかくや」という発掘の喜びを味わえるのである。
その日は、何軒かの古本屋をはしごした後で、馴染みのブラッドリーの店をのぞくことにした。この古本屋は気難しい親父がやっているわりにいつも繁盛していた。常連客が、眼鏡を掛けた老店主を囲み、古本談義に花を咲かせていることも多い。
この店に入る度に、オンライン書店からクリックひとつで本が買えても、やはり古書店巡りはやめられないという思いを強くするのであった。
■古本屋での出来事
ブラッドリーの店は、その日も賑わっていた。
店の奥で何人かの客が声高に話しているだけでなく、入り口近くの棚の前でも、小柄な白髪の老人がしゃがみこみ、両手で本を抱えながら読みふけっていた。わたしは、老人の脇をすり抜けて店の奥に入ろうとしたが、通路が狭いこともあって彼にぶつかってしまい、その拍子に本を床に落ちてしまった。
わたしはあわててその本を拾い上げ、失礼を詫びながら老人に手渡そうとした。しかし彼は、わたしのことをひどく罵しりながら、ぷいっと店外に出ていってしまった。取り残されたわたしは、しかたなくその本──『実用養蜂便覧』という題名であった──を棚に戻し、奥の帳場にいる店主に、客の機嫌を損ねてしまったことをわびた。
「ずいぶん怒らせてしまったようだよ。君の店にも申し訳ないことをしたが、許してくれたまえ。あのご老人は馴染み客なのかい?」
「いえ、常連さんではないですね。それよりも、ワトスン先生にわざとぶつかったようにも見えましたが…」
「そんなことはないだろう。わたしが不注意だったただけさ」
「虫の居所でも悪かったのかもしれませんね。それはともかく、こんな本が手に入ったんですが、いかがでしょう…」老店主は奥の棚から『書物崇拝の起源』という本を取り出しながら言った。
わたしはその本を受け取り、ざっと目を通した。「なかなか興味深いね。もらっておくことにしよう。しかし、君はいつも商売がうまいな」
「いやですよ。お得意様の便宜をはかっているだけですから」
「それが商売のコツということなんだろうな」
「いえいえ、最近は商売あがったりでしてね」
「こんなに賑わっているのにかい?」
「うちのように学術書を中心に扱っている店は、贔屓にしてくれる大学の先生や研究家、好事家のお得意様でもっていました。それこそ大学を幾つか巡れば、先生方が金に糸目をつけずに稀覯本を買ってもらました。最近は、それがさっばりでして…」
■古書店の将来
「なぜ、外回りの売り上げが減ってしまったんだい?」
「そりゃ、もちろんインターネットです」
「インターネット? それは、どういうことだい」
「例えば、一昔前の研究者は、古書目録をあちこちから取り寄せたり、足を棒にして古書店街を歩き回ったりして、貴重な文献資料を手に入れていました。古本屋と付き合いがなければ、研究なんてできなかったわけです」
「その通りだよ。今だって事情は同じだろう」
「それが、今やインターネットにつないで検索すれば、海外の文献を含めてたちどころに見つけることができます。いまや多くの古本や希覯書をオンラインで検索できますし、どの古本屋がいくらで売っているということまで分かります。昔と同じようなやり方は通用しなくなっているんです」
「確かに、ぼくもインターネットを使って調べ物をする機会がずいぶん増えたが、だからといって古本屋が不要になるとは思えない。それに、古本には古本の良さがあるじゃないか。最近の新刊書はあまりにも中身が薄く、出版される意義を疑いたくなるような本が多いが、多くの古本には存在価値がある。残るべくして残り、読み継がれてきた本だからこそ、今後も残る価値があるんだ。そう簡単に、見向きもされなくなるということはないだろう? だいたい、ネット上の細切れ情報や怪情報が専門書を駆逐するとは思えないよ」
「そりゃ、ネット上の情報で信頼に足るものはほとんどありませんよ。とはいえ、立派な論文がサイト上で公開されることも増えていますからね。そうした論文が蓄積されていけば、やがて古本屋もいらなくなるでしょうな」
「しかし、古書店は、単に古い本を売っているだけじゃないだろう。それぞれに専門分野を持ち、客にとっては、自らの教養や知性、いわば読書に関する全能力が試される場でもあるわけだ。そうした専門性まで、インターネットで肩代わりできるとは思えないが…」
「そりゃ、買いかぶりというもんです。古本に価値があるといっても、古本屋に価値があるとは言い切れないでしょう。確かに、古美術商みたく、高価な稀覯本を扱う好事家向けの店としては生き残ることはできるでしょう。でも、専門領域の知識・知恵を提供する役割は、インターネット上のコミュニティが果たしてくれるんじゃないですか」
「確かに、実際に店を構えている書店よりも、オンライン書店の方が、本を探すにしろ、購入するにしろ便利だから、今までのような古本屋は減っていくのだろうが…」
「この街でも、ずいぶん多くの古書店が廃業していますが、やはりオンラインで古本が買えるようになったことの影響でしょう。実際、この街でもなんとか続けている古本屋の多くは、自店のサイトを立ち上げていますからね。でも、店で売るか、ネットで売るかは、たいした問題じゃない。問題は、デジタル化がさらに進んだその先です」
「その先?」
「インターネット検索会社やら国会図書館が、著作権の切れた本をデジタル化して無償で公開するという話もあるじゃないですか。そうなったらもう目も当てられません。古本屋はやがて壊滅しますよ。それ以前に、電子書籍が普及すれば、紙の本は残るんでしょうかね? 紙の本がなくなれば、古本屋も新刊書店も商売上がったりですな」
■紙の本や本屋が消えるのか?
「電子書籍は、そんなに影響力のあるものなのかい?」
「そりゃ、そうでしょ。本が誕生して以来、これほどの変革はなかったと言われているくらいですから。なにしろ、紙と印刷がいらなくなるんですからね」
「グーテンベルク以来の変革が起こると言っているように聞こえるが?」
「まさにその通りです。少なくとも古本屋にとっては衝撃的ですよ。なにしろ、電子書籍は店舗で流通しませんし、紙の本と違っていつまでたっても古くはなりませんからな…」
「しかし、古本ならではの本の魅力というものがあるじゃないか。新刊でも、紙ならではの手触りや、紙をめくるときの音、インクのにおいといった魅力があるじゃないか。そうした、紙の本ならではの質感や風情を求める読者が、無味乾燥な液晶ディスプレイに表示される文字に満足するとは思えないが…」
「まぁ、紙の本がすぐになくなる、ということはないでしょう。しかし、やがては子どもたちも、電子書籍の教科書で勉強するようになり、紙の本は省みられなくなっていくでしょうな。もっとも、電子書籍に関しては、新刊書店が抱えている危機感に比べれば、われわれ古本屋の危機感は気楽なものなんでしょうがね。さっきも言ったように、古本屋は古美術商みたく生き残ることはできるでしょうから…」
「紙の本がなくなることは、読者としても、物書きのはしくれとしても、どうにも納得できないよ」
「なんとも希望のない時代になったものです。まぁ、われわれが生きているうちに、紙の本がなくなることはないでしょうから、その点ではさほど心配することじゃないかもしれませんが…」
そのとき、他の客が本を買おうとして店主に話しかけてきたので、わたしは退散することにした。電子的なツールやガジェットは、どちらかというと喜んで使うわたしであるが、電子書籍に魅力は感じない。老店主とのやり取りに憮然としたものを感じながら、わたしはパディントンの自宅に引き上げることにした。
■老愛書家の正体
自宅に戻り、書斎に入ってから五分もしないうちに、家政婦が来客を告げた。知らない名前であったが招き入れてみると、その客は、先ほどの古書店でわたしが運悪くぶつかってしまった書物愛好家の老人であった。
「驚かれたようですな」老人はしゃがれた声で言った。
彼が何の目的でわたしを訪ねてきたのか、そしてどうやってわたしの家を知り得たのか分からないため黙っていると、「先ほどの失礼をなんとしてもお詫びせなばと思いましてね。もちろん、あなた様に悪気があってぶつかったなんて思ってはおりませんよ。あのお店の主人とのやりとりが気になって、後をつけたというわけないのですが、実は、わたしはこの近所で本屋を営んでおりまして、たまたま帰り道が同じ方向だったので、先ほどの不始末のおわびをするとともに、あなたにご紹介できそうな稀覯本も幾つかありますのでな。思ったとおり、なかなかの蒐集家ですな。ただ、その二段目の棚が風邪を引いているようですから、その空間を埋めるのにぴったりな本をご紹介しようかと思いましてね。ちょうど手ごろな本を千冊ほど持ち歩いているものですから」
「千冊? 冗談はよしたまえ! 君は、せいぜい十冊ほどの本を抱えているだけじゃないか」
「あなたは、どうやら観察力が不足しているようですな。ご自宅の玄関の階段が何段あるのか、あいかわらず知らないままなのでしょう。ところで、あなたは、中国の陶器関係の資料を精力的に集められていると見ましたが、どうですかな」書斎の棚を抜け目のなさそうに見回しながら言った。「それで、その棚の二段目の『西部ヒマラヤの猛獣狩り』と『密林の三カ月』という本の間に、ちょうどよさそうな隙間があるじゃないですか」
わたしは首を回して本棚を見たが、二段目にはほとんど本で埋まっていて、ごく薄い本が一冊入るかどうかというところだ。
「あいにく、そんな隙間はないね…」と言いながら向き直ると、なんと、シャーロック・パームズがわたしに笑いかけていたのであった…。
気がつくと、パームズがわたしの顔を覗いていた。どうやら気を失って倒れてしまったようで、わたしはシャツのカラーがゆるめられた状態で、ソファに横たわり、脣にはブランデーの刺激が残っていた。
「ワトスン君、本当にすまなかった。まさか君がそんなに驚くなんて思ってもみなかったんだ」あの懐かしいパームズの声であった。
「生きていたんだね。どんなに心配したことか」わたしはパームズの腕をつかんで言った。
「君には、とても済まなかったと思っている」彼は、白いつけ毛などの変装をはぎとると、椅子に腰を下ろし、くつろいだ姿になってパイプに火を付けた。「ただ、兄の依頼もあって、どうしても身を隠す必要があったのだ。ぼくが死んでしまったと思わせるのが肝要だったものだからね。ところで、君に手伝ってもらいたいと思っているんだが、都合はどうだい?」
「君は本当にあいかわらずだな。でも、うれしいよ。もちろん協力するさ。で、何をすればいいんだい?」
■キンドルの読書端末としての機能
「以前の君は、PDAにずいぶん凝っていたが、最近はもう使っていないのかい?」
「今はスマートフォンを使っているよ」
「ということは、情報端末への興味を失ってしまったということではないんだね」
「ああ。そんなことはないよ」
「じゃあ、これはどうだい?」パームズは、老愛書家に変装していたときに小道具として持っていた数冊の古本の間から、白く薄い端末を取りだした。
「なんだい、それは?」
「キンドルだよ。知っているだろう」
「初めて見るが、写真の印象よりずいぶん小さいし、なによりも薄い。とても電子端末とは思えないな」
「情報端末好きの君のことだから、とっくに触っていると思っていたよ。まさか、こうしたものに興味を失ってしまったというわけじゃないだろうね」
「電子書籍はどうもね。確かに今までずいぶんいろいろな情報端末を使ってきたし、PDAで読書もしてきたが、読書をするなら紙の本が一番さ。ディスプレイ上のフォントじゃ、紙の本から醸し出されるあの独特の雰囲気は再現できないだろう」
「そういう考え方を否定しようとは思わないないさ。ただ、君の持論は今度ゆっくり聞かせてもらうとして、今はキンドルについて知りたいんだ」
「キンドルの何を知りたいんだい?」
「すべてだよ」
「じゃあ、このキンドルが端末としてどんな機能を持っているのか調べてほしいということかい?」
「もちろんそれもあるし、本当にキンドルのすべてを知りたいんだ。機能や使い方だけでなく、市場の状況、開発の経緯、今後の展開も含めてね。だからこそ、君の手を借りようと思ったんだよ。君なら、持ち前の探求心と検索能力を使って、キンドルのすべてを調べ上げ、分かりやすくまとめてくれるに違いないからね」
■キンドル2とキンドルDX
「とりあえず、キンドルについて何でもいいから調べてもらえるかい。ウェブで検索をしながらだと、どうしても考えをまとめられないからね。君が、僕専任の司書として相談係を買ってくれれば、実にありがたい」
「何から調べようか?」ブラウザーを立ち上げ、検索の準備ができてから、パームズを振り返ると、彼はい「後は君に任せた」という態度で、椅子に背をもたせかけて目を閉じてメイモクしているテイだった。
「役に立ちそう情報を見つけたら、読みあげることにするよ」わたしは、キーボードを叩いて、キンドルの情報を検索した
「まず、アマゾンのプレスリリースだ。要約すると、キンドルは、米国のAmazon.comの読書端末であり、初代の発売は2007年の11月だ。その後、2009年6月には新型のキンドル2が、さらに同年7月にはキンドルDXが発売された。
当初は米国でしか利用できなかったが、やがて国際版と呼ばれるタイプが登場し、日本でも、2009年10月がキンドル2が、2010年1月がキンドルDXが購入できるようになった。ただし、日本のアマゾンでは扱っていないため、米国Amazon.comから購入する。
ただし、現状では基本的に日本語には対応していないし、購入できる書籍も日本語のものはほとんどない。こんなところだよ」
■キンドルの魅力とは
「キンドル2とキンドルDXは、何がどう違うんだい?」
「ちょっと待ってくれ。えーと、仕様の違いは…、画面の大きさだね。キンドル2は6インチだけど、キンドルDXは9.7インチを採用しているようだ」
「ということは、表示面積で約2倍半というところかい。キンドルDXの方が断然見やすいのだろうが、重さはどうなんだろう」
「当然ながらキンドルDXの方が重くて、540グラムだ。キンドル2は290グラムだから倍近く重いということになるね」
「見やすさを取るのか、それとも軽さを取るのか。なかなか悩ましいところだね」
「キンドル2は、日本で発売されている一般的な上製本と同じくらいの重さなんじゃないかい。もっとも、キンドルには何冊もの電子書籍を保存できるわけだから、1冊の上製本と比較するのは意味がないだろう。いったいキンドルには何冊ぐらいの電子書籍を保存できるんだい?」
「最大で、キンドル2が1500冊、キンドルDXが3500冊となっているね」
「ちょっとした図書室というところだね。紙の本でそれだけの量となると、持ち歩けないのはもちろん、書斎にも入りきらないだろう」
「それから、キンドルの最大の特長は、イーインクと呼ばれる電子ペーパーを採用していることだ。16階調の表示が可能で、モノクロ表示ながら、液晶ディスプレイとは異なり、紙と同じように反射光を用いて表示する仕組みなんだそうだ」
「液晶ディスプレイは、戸外の直射日光のもとでは表示が見えにくいが、キンドルなら苦にならないということなのかな。目の疲れも少ないだろう」
「電子ペーパーには特長がもう一つある。電力を消費しないで表示内容を維持できるため、ほかの情報端末に比べると消費電力が非常に小さく、いったんフル充電すれば1週間は使えるようだ」
「バッテリーの残りを気にせずに、読書三昧できることになるね」
「面白いのは、電源が切れた状態でも表示を維持できるため、購入直後のキンドルには、使い方の説明が画面に表示されているようだ」
「なんとも素晴らしいアイデアじゃないか」
「それから、携帯電話網を利用した通信機能を内蔵していて、アマゾンの電子書籍ストアであるキンドルストアに、いつでもアクセスできるだけでなく、ウェブも利用できる。しかも無料だ」
「無料? 通信料は誰が負担するんだい?」
「キンドルストアの電子書籍の料金に含まれているらしい。とはいえ、通信料込みの電子書籍の料金は10ドル前後に設定されているようだ」
「紙の本に比べるとずいぶん安いね。しかし、電子書籍のサンプルを読んだり、ウェブにアクセスする際の通信料も無料なのかね?」
「説明を読むと、どうもそうらしいなぁ。まぁ、キンドルストアから電子書籍のサンプルをダウンロードする通信料はプロモーション費のようなものなんだろう。ちなみにウェブのアクセスが無料なのはあくまでも暫定的なもので、今後はどうなるか分からないそうだ」
「ところで、キンドルストアでは何冊くらいの電子書籍を売っているんだい?」
「現時点で40万冊ほどのようだ」
「図書館並の本がそろっていて、キンドルさえ持っていれば、いつでも好きなときにキンドルストアにアクセスして本を買えるわけだ。まさに読書革命だよ」
■キーボードは何のために
「電子書籍に対する君の論調はずいぶん変わってきたようだよ。それはともかく、今までの知識を前提に、依頼人から預かってきたキンドルを観察してみようじゃないか。ぼくのやり方は君もよく知っているだろうから、君の手でこのキンドルを調べて、何が推理できるか、聞かせてもらいたいんだ」
「このキンドルは、君のものじゃないのかい」
「ああ、詳しく説明すると長くなってしまうんだが、ある依頼人から預かったものだ。所有者と依頼人は別なんで、ぼくも所有者が誰なのかは知らないんだ」
「じゃあ、所有者を推理しろとでも言うのかい?」
「それもあるが、その程度のことならわざわざ君を煩わせることはないさむしろ、キンドルに対する君の率直な意見を聞きたいんだ。なにしろ、昨夜、依頼人から話を聞くまでは、ぼくはキンドルの存在自体を知らなかったくらいで、正直に言って、捜査の糸口さえつかめていないんだ。それで君の力を借りたいと思ったのだよ。電子端末の操作にかけては、君の想像力は取扱説明書をはるかに超えているからね。きみが頼りなんだよ」
「そういうことなら、ぼくなりに何かをつかめるだろう」
わたしは手渡されたキンドルを注意深く調べてみた。
「まず分かるのは、画面サイズからすると、この端末はキンドル2ということになるね」
「ほかには?」
「興味深いのは、読書用と思われる操作ボタン以外に、小型のキーボードが組み込まれていることだ。読書の際にキーボードが必要だとは思えないが?」
「なかなか鋭い観察だよ。たぶん、検索にでも使うんじゃないかい」
「なるほど。そういうことも考えられるね」
「いや、ほかにも使い途があるのかもしれない。だからこそ君に調べてほしいんだ」
■ボタンを押してページを繰る
「スイッチを入れてもいいかい?」
「もちろん。依頼人には、自由に使ってくれと言われているし、必要なら電子書籍を購入してもかまわないそうだ」
ざっと見回したところ、電源スイッチらしきものが上側面にあった。押しても反応しないので、横にスライドさせたら電源が入った。
すると、それまで画面に表示されていたコナン・ドイルの肖像画が、メニュー画面に切り替わった。後から知ったことだが、キンドルではこの画面のことを「ホーム画面」と呼ぶ。電子ペーパーは、電源が入っていなくても表示可能だということは知っていたが、どうやら肖像画は電源オフ時にスクリーンセーバー的に表示されるものらしい。
メニュー画面は、購入済みの本のリストになっているようだった。
「どんな本があるんだい?」
「タイトルを見ると、海洋冒険小説が何冊かと、それから『小惑星の力学』という本があるようだ」
わたしは、画面の右側にあるカーソルボタンを使って海洋小説のひとつを選択すると、ページが開いた。
文字は白地に黒で表示され、「電子ペーパー」と呼ばれるだけあって、紙に印刷された文字とほとんど同じような印象であり、くっきりした表示で非常に読みやすい。液晶ディスプレイのように発光するわけではないので、目が疲れることもなさそうだ。
とはいえ、最初はカーソルボタンの操作方法にとまどった。「5ウェイ・コントローラー」と呼ぶらしいが、画面右下に小さな四角い突起物を押して操作する。ボタンを上下左右に動かしてカーソルを移動させたり、さらに押し込むことで「選択」や「確定」の操作ができる。初期の携帯型ゲーム端末のような操作感だ。
もっとも、本が表示されれば、あとは[NEXT PAGE]ボタンを押してページを繰っていけばいい。ときたま、前のページに戻るために[PREVIOUS PAGE]ボタンを押すこともあるが、基本的には[NEXT PAGE]ボタンだけでだけでこと足りる。しかも、[NEXT PAGE]ボタンは画面の両側に大きめに配置されているので、思ったより読書に集中できるようだ。
■今までにない読書体験
「ワトスン君、ずいぶん熱心に研究しているようだが、そろそろ今までの成果を聞かせてくれてもいいんじゃないかい」という声に、わたしは我に返った。どうやら、いつのまにか電子書籍を読み更けてしまっていたようだ。
「すまない。つい熱中してしまったようだ」わたしは、キンドルから顔を上げながら言った。
「何が、そんなに面白かったんだい?」
「たまたま選んだ本が本格的な海洋小説で、内容も良かったんだが、やはりキンドルの使いやすさだよ。電子ペーパーは照明の映り込みがほとんどなくて読みやすいし、ページめくりもボタンを押すだけだから快適だ。最初のうちは、ページ送りの度に、画面が一瞬だけ反転するのが気になったが、慣れればさほど気にならない。しかも、軽くて持ちやすい。ひょっとしたら、紙の本よりも快適に読書できるかもしれないな」
「紙の本より優れていると?」
「ああ。例えば、この[Aa](テキスト)キーを押すと、文字サイズや1行あたりの単語数を変更できる。実は、ぼくも近ごろは老眼が入ってきたようで、スマートフォンの画面や文庫本を読むのがいさささか辛くてね。その…、キンドルなら読みやすい文字サイズで読める。なんともうれしいじゃないか」
「キンドルは老人向けということなのかい?」パームズは皮肉っぽい笑顔を浮かべながら聞いた。
「それだけじゃないさ。単語の前にカーソルを移動持ってくると、画面下に英英辞典『The New Oxford American Dictionary』の内容が自動的に表示される。さらに詳しい解説を読みたければエンターキーを押せばいい。辞書が内蔵されているから、手軽に単語の意味を調べられるんだ。例えば海洋小説を読んでいたときに、海事関連の専門用語が出てきてもすぐさま意味を確認できるといわけだ。もちろん若年層の読書の助けにもなるだろう。
ほかにも、特徴的な機能がいくつかあるようだ。驚いたのは、ウィスパーシンクと呼ばれる機能だ。これは、キンドルストアで購入した電子書籍は、PCやMac、iPad、iPhoneといった端末でも、各端末用のソフトウェアをインストールすれば読むことが可能になようだ。しかも、インターネットを介して自動的に端末間の同期を取る仕組みになっているため、どの端末でもが前回読んだ続きから読むことができるそうだ。素晴らしいじゃないか」
「電子書籍に対する君の意見は、わずかな間にずいぶん様変わりしたように思えるが、ぼくの勘違いかい?」
「こういうものは、実際に使ってみなければ分からないよ。電子書籍に否定的な人間も、実際にキンドルを使ってみれば考えを改めるんじゃないかな。例えば、同じ電子書籍でも、パソコン上で読むのとキンドルではまったく違うということはよく分かったよ」
「確かに、パソコンやスマートフォンで読む電子書籍と、電子ペーパーを採用した電子書籍リーダーでは、まったく異なる読書体験となるだろう。もし電子ペーパーによる読書体験なしで電子書籍について語るとしたら、それは本質から外れた意見にならざるを得ないだろうね」
「確かに、ぼくは電子書籍に対してあまり好意的な意見の持ち主ではないかもしれない。なによりも紙とインクのにおいを愛しているからね。
しかし、ごく短時間とはいえキンドルを使ったことで、実際に触りもしないで電子書籍を否定していた自分を恥じるよ。
例えば、紙の本は手軽に書き込みができるという魅力がある。僕が図書館で本を借りずに購入するのも、自由に書き込みをしたいからなんだ。逆に言えば、図書館の本同様に、書き込みができないのが電子書籍の欠点だと思っていたのだが、キンドルを実際に操作してみると、注釈機能を使えば本文中に注釈を追加できるし、ブックマーク機能を使えば、いつでもそのページを呼び出すことができる。実際に使ってみることで、電子書籍を食わず嫌いしていたことがよく分かったよ」
■ナポレオン金貨盗難事件
そのとき、女中が来客を告げに書斎に入ってきた。その様子を見ていたパームズは「君の患者ではなく、きっとぼくの依頼人だ。いささか話が込み入っているんで、事件についてぼくから説明するよりも、君に直接話を聞いてもらった方がいいと思い、ここを訪ねるように伝えておいたんだ。まずかったかい?」と言った。
「もちろん、歓迎するよ」
扉を開けて入ってきた訪問客は、痩せて背が高く、なんだかもの悲しい顔つきの男で、ひどくぴかぴか光るシルクハットをかぶって、嫌味なほど立派なフロックコートを着ていた
「ワトスン君。こちらはシティ・アンド・サバーバン銀行の重役で、コバーグ支店支店長も兼ねているメリウェザーさんだ。メリウェザーさん、こちらはわたしの協力者のワトスン先生です。今までも多くの事件で彼の力を借りてきましたが、今回の事件でも、きっと役に立ってくれるに違いありません」
「そうあってほしいものです」メリウェザー氏は握手を交わしながら尊大に言った。「何しろ、警察や私立探偵が束になってまんまと裏をかかれた後ですから、わらにでもすがりつきたいと思っています」
「さて、メリウェザーさん、お気持ちは察します」パームズは、自分の下宿に招いた客をもてなすかのようにくつろいだ感じで、椅子を勧めながら言った。「ワトスン先生は今回の事件をまったく知りませんし、ぼくもグレグスン警部から話の大筋しか聞いていません。事件の顛末を詳しく話していただけますか」
「先月のことになりますが、当行では、資本強化の必要から、フランス銀行に三万ポンドのナポレオン金貨を借り入れることになり、それをコバーグ支店の地下にある金庫室に保管していました。当然ながら保管場所については箝口令を敷きましたが、どうも情報が漏れたようで、その資金を狙って犯罪界で不穏な動きがあるという情報が入りました。当行はロンドンで最も警備が厳しいといわれていますが、それでも念のためにロンドン警視庁にも警備をお願いしましたし、フランス銀行からもフランソワ・ル・ヴィラールという探偵とその助手を派遣してもらいました。ところがその矢先の水曜日、正確には先月27日に、発覚したのは翌日の木曜日の朝ですが、金庫室からすべてのナポレオン金貨が盗まれていたのです!」
■認証トークンの暗証番号
「警官が警備していたにもかかわらず、盗まれたということですか?」
「警官や私立探偵は、わたしと一緒に二階の事務室に待機して三時間おきに巡回していましたが、その間にやられたのです」
「何か、手掛かりになるようなものは残っていなかったのですか?」パームズは聞いた。
「フランスの私立探偵が現場を調べた際に地下金庫室の敷石がずれているのを発見しました。開けてみると、地下トンネルにつながっていて、そこから侵入したことが分かりました」
「もちろん、金庫室の金庫には鍵が掛けられていたんですよね?」
「当然です。最新構造の金庫でして、暗証番号は、認証トークンというデバイスを用いて60秒ごとに6桁の数字を生成しています。ですから、認証トークンが盗まれない限り、暗証番号が漏えいして金庫が開けられる心配はまずありません」
「認証トークンはどこに置いてあるのですか」
「事務室のわたしの机の上です。ただし、頑丈な鎖で机の下の床とつないであり、錠を外さないかぎり持ち出せないようになっています」
「鎖の鍵は誰がもっていますか」
「わたしと副支店長です。金庫を開ける際には、わたしか副支店長に許可をとって鎖から外し、金庫室に認証トークンを持ち込むことになります」
「水曜日はどうでしたか?」
「夕方、わたしが金貨の無事を確認するために金庫室に持っていきましたが、それ以降はずっと机の上にありました」
「それは確かですか?」
「ずっと見張っていたわけではありませんが、警官や探偵がわたしの机の回りにいましたから、誰も気づかないうちに持ち出すことはできなかったはずです」
■犯人はどうやって暗証番号を知り得たのか
「認証トークンに持ち出せないにしても、液晶に表示されている数字を盗み見することはできるんじゃないんですか?」
「万一盗まれた際にはすぐ気づくように、わざと目に付きやすいように机の上置いてありますから、事務室にいる人間なら誰でも見ることができますし、6桁の数字ですから記憶も容易です。ただし、二階の事務室から地下金庫室に行くには少なくとも3分はかかりますから」
「1分ごとに新しい数字が生成されるため、盗み見た暗唱番号では金庫を開けられないということですね」
「その通りです」
「水曜の夜から翌朝にかけて、事務室には誰がいたのですか?」
「警備の警官が二名、それとフランスの探偵と助手、それからわたしの五人です。それと、徹夜で決算書をつくる必要があったため、副支店長のゴローと事務員のパイクロフトが残っていました」
「では、事務所にいる人間が、例えばトイレに行ったときに携帯電話で教えることはできたのでは? あるいは決算書の作成に使っていたパソコンからメールをしたという可能性もありますね」
「警官が念のために二人の携帯電話の履歴を調べましたが、その時間帯には通話もメールも送られていません。メールサーバーの履歴も調べましたし、事務室にあるインターネットにつながったすべてのパソコンのキーボードの入力履歴も調べましたが、Webメールが使われた気配もありませんでした」
■地下トンネルに落ちていたキンドル
「なるほど。犯人一味が、どうやってパスワードを盗みだし、それをトンネルにいる仲間に伝えたのかが分かれば、おのずと事件は解決するということですね。では、質問の切り口を変えましょう。フランスの探偵が見つけた地下トンネルはどこにつながっていましたか?」
「支店の裏通りにある質屋の地下室につながっていました。一味は、そこをアジトにしていたに違いありません。ただ、ロンドン警視庁で質屋の主人を捕まえ尋問したところ、彼は事件とはまったく関係のないことが分かりました。捜査の結果、どうやら半年ほど前から雇っていた住み込み店員が犯人の一味だったようです」
「ちぇっ!」シャーロック・パームズはと立ち上がりながら叫んだ。「質屋の主人は赤毛じゃありませんか? やはり、そうか。今回の事件は、最初からぼくに相談してくれていれば、間違いなく犯人一味を一網打尽にできたはずなんだが…」
パームズはそれでもすぐに落ち着きを取り戻して、「もちろん、その店員は失踪してしまったんですね。彼のことで何か分かりましたか?」
「彼の私物は一切なくなっていましたし、名前も偽名だったことが分かりました。ただ、トンネルにそれが落ちていただけです」支店長は、テーブルの上に置かれたキンドルを指さしながら言った。
「証拠品として押収されたキンドルを、グレグスン警部に頼んでぼくがいったん預かり、さっきまで君が使っていたというわけさ」パームズは言った。
■犯人はメリウェザー氏?
「さて、メリウェザーさん。今回の事件は、手順さえ間違わなければ未然に防ぐことができたはずだけに、極めて残念です。とはいえ、今からでも多少なりとも助言ができそうですので、明日の夕方六時にベーカー街二二一Bをお訪ねいただけますか」
「分かりました。それでは、あなたの手腕に期待することにしましょう」支店長は立ち上がると、わたしたちと握手をして引き上げていった。
「ねぇ、パームズ。依頼人に六時にベーカー街に来てもらうということは、きみはまたハドスン夫人の下宿に戻ったのかい?」
「ああ。君が引き払った後も、兄が下宿代を払い続けてくれたし、ハドスン夫人もきちんと管理していてくれたからね。それよりも、君はメリウェザーさんの話をどう思ったんだい」
「さっぱりだよ。どうやって金庫から金貨を盗み出したんだろう」
「ロンドン警視庁の見張りを出し抜くのは、さほど難しくはないだろう。同じような事件は七七年にアンドヴァであったし、去年はヘイグでもあったからね。しかし、今回の事件は、地下トンネルか地下金庫室に潜んでいた犯人一味に、金庫の暗証番号を伝えたのかが分かれば、たちどころに解決するはずだ。しかし、支店長の話によると、事務室でしか知り得ないパスワードを、1分以内に仲間に伝えることはどう考えても不可能だ」
「ということは、ほかのあらゆる可能性が否定された場合は、いかにあり得ないことであっても、残ったものが真実だという君の公理からすれば、犯人はメリウェザーさんということになるのかい?」
「素晴らしい推理だ、ワトスン君。しかし、仮にメリウェザー氏が犯人一味だったとしても、ほかの人間と同様に、だれにも気づかれずに電話をかけたり、メールをすることはできないはずだ。ロンドン警視庁は、メリウェザー氏の通信記録だって調べているはずだからね」
■犯人の手掛かり
「どうやら事件を解決するには、他の方向から考えるしかなさそうだね。キンドルが犯人のものなら、解決につながる糸口にはないのかい?」わたしは聞いた。
「いい考えだよ。それを、ぼくたちの出発点としようじゃないか。このキンドルが犯人のものとすると、なにか考えつかないかい?」
「なるほど! キンドルには自分の名前が登録できるから、それを調べれば犯人の本名が分かるかもしれないわけだ」
「調べてみようじゃないか」
わたしは、テーブルの上のキンドルをつかみ電源を入れると、[HOME]ボタンを押した。ホーム画面が表示されると、画面の左上には「Cray's Kindle」という表示があった。
「クレイという人物が、このキンドルの所有者として登録されている。決定的な証拠だよ」
「偽名かもしれないぜ」パームズはそっけなく言った。
「仮にそうだとしても、何かヒントになるかもしれないじゃないか。しかし犯人は、キンドルをなぜトンネル内にまで持ち込んだのだろう? まさか、時間つぶしのために読書でもしていたとは思えないし…。だいいちキンドルにはバックライトがないから、暗いトンネルや金庫室で、仮にランタンの光があったとしても本を読むには適さないだろう」
「その点は、確かに重要だ。犯人はトンネル内、ひょっとしたら金庫室かもしれないが、暗い中で、何を読んでいたのだろう。それさえ分かれば、われわれの推論も一歩前進するんだが…」
「『ホイッティカー年鑑』だよ。彼の蔵書は科学論文や詩集がほとんどで、年鑑だけ異質だったんでよく覚えていたんだ」わたしは、キンドルを操作して、ホーム画面を表示させ、書籍のリストをパームズに示しながら言った。
「ワトスン君! 大手柄だよ。科学論文や詩集は、犯人の趣味だと考えて間違いない。じゃあ、年鑑は何のために読む必要があったんだろう?」
「英国の政治や経済、世相の動きを、急に調べる必要があったということだろうか?」
「あるいは、内容の問題ではないとすれば…。例えば、紙の年鑑なら重しがわりに使うということがよくあるように、ボリュームのある電子書籍にも特別な用途があるのかもしれない。『ホイッティカー年鑑』なら、1000ページとはいかなくても、少なくとも500ページ以上はあるだろう」
「パームズ、それはちょっと違うんだ。キンドルは、文字サイズや1行あたりの文字数をユーザー自身で変更できるから、ページという概念は使えないことになる。そこで、ロケーションという値を用いて、開いている位置を示すようだよ」
「いずれにせよ、厚い本なら、ロケーションの値も多くなるんだろう」
「ああ、そのようだね。ロケーションの値がどういう基準で設定されているのかよく分からないが、通常のページ数よりは多くなるようだよ。」わたしは、幾つかの本を開いて、ロケーションの値を確認してから言った。「しかし、ロケーションの値が事件に関係あるのかい?」
■キンドル拾得の広告記事
パームズがなかなか返事をしないので、キンドルから顔を上げると、彼は肘掛椅子に坐ったまま、指先を組み合わせ、両脚を前に投げ出したまま、天井をじっと見上げていた。しばらくして、上着からパイプを取り出すと、それに火を付け、いかにも物うげな顔つきで、濃い青い煙の輪をはき出し始めた。見かけとは違って、猛烈な勢いで頭を働かせていることが分かったので、彼がなんらかの結論を出すのをじっと見守ることにした。
しばらくしてパームズは口を開いた。
「ワトスン君、まさに決定的な糸口だよ。実は、犯人の目途はついていたし、そいつをベーカー街に呼び寄せることも難しい話ではない。ただ、パスワードを破った方法をこちらが知らないと分かれば、そいつはけっして犯行を認めないはずだ。それでどんな手段を取るべきか悩んでいたんだが、こうなったら主な夕刊に広告を出すことを急がなきゃいけないようだ。これから広告の文面を言うから、各新聞社にメールで広告を依頼してほしい。いいかな?
『今朝、サクス・コバーグ・スクエア近くの路上にて、クレイという名前で登録されているキンドルを拾得す。明日夕方六時三十分にベイカー街二二一番地Bに申し出られし』
よし、これでいいだろう」
「犯人はこの広告記事に気づくだろうか?」
「警察の捜査状況を知るために、すべての新聞に目を通しているはずさ。それも、くまなくね。あとは、きみがTwitterあたりを使って、この情報をネット上に広げてもらえれば完壁だよ。もちろんTwitterはやっているんだろう?」
「ああ。それならSNSのキンドルコミュニティーにも情報を流しておくよ」
「すばらしい」
「しかし、犯人はやってくるだろうか?」
「もし来なければ、次の手を考えるだけさ。さて、ぼくもそろそろおいとますることにしよう。もちろん、君も明日六時にはベーカー街に来てくれるだろうね。ピストルも持ってきてくれたまえ。ぼくは明日までに、このキンドルについて詳しく調べておくことにしよう」
パームズは、わたしの返事も待たずに、扉を開けて出ていった。
■パームズの調査報告
翌日は、重症の患者を抱えて一日中忙しかったが、五時過ぎにようやく身体をあけることができ、辻馬車を急いでベイカー街へ走らせた。
下宿の前に近づくと、背の高い男が馬車を降り、玄関の扉を叩くのが見えた。パームズを訪ねるメリウェザー氏であった。私たちは一緒に彼の部屋へ通された。
「ワトスン君も同時に到着とは都合がいい。メリウェザーさん、あと三十分で犯人がやってきますから、それまでに調査結果を報告しておきましょう」パームズはそっけなく言った。
「犯人だって?」
「そうです。クレイという人物がコバーグ支店に務めていませんか?」
「いや、そんな行員はいませんな」
「やはり偽名でしたか」わたしは口を挟んだ。
「いや、逆かもしれないぜ」
「逆?」
「とにかく、六時三十分には、このキンドルの持ち主がやってくるはずです。その人物は、たぶんあなたのよく知っている行員であり、そして犯人です」
「トンネルに落ちていたとはいえ、キンドルは本当に犯人のものですかな?」
「その点は間違いないはずです。ただ、所有者情報は偽名ということですから、そこから犯人をたどることはできません。そこで犯人に直接お越しいただこうと考えたわけです」
「しかし、犯人がのこのこやってくるとは思えませんが」
「いや、きっと来るはずです。持ち主はキンドルをトンネル内で落としたとは思っていませんからね」
「なぜ、断言できるのですか?」
「キンドルを何らかの形で今回の犯罪に利用したとすると、そんな重大な証拠をトンネル内に落としたままにしておくでしょうか。もし落としたことに気づいたのなら、なにはともあれ回収に戻ってきたはずです」
「トンネルを出た後で落としたとでも思っていると?」
「あるいは、仲間の誰かが持っていると考えているかもしれません。こういった犯罪では、事を終えた一味は、金貨をいったんどこかに隠しておき、ほとぼりが冷めるまではお互いに連絡を取りませんからね」
■犯行に使われたキンドル
そのとき、誰かが階段を昇る音がした。部屋に通されてきたのは、三十過ぎの青年で、小柄ながら頑丈そうな男であった。
「ホール・パイクロフト君!」支店長は椅子から立ち上がりながら言った。
「支店長! なぜ、ここに?」青年は驚きながら言った。
パームズは青年の背後に回り、後ろ手で扉に鍵を掛けると、「メリウェザーさんは、拾得したキンドルをきみに返したいそうだ。お礼はちょっと高くつくが、三万ポンドのナポレオン金貨でどうだい?」
「なんだって!」青年は蒼白になりながら言った。
わたしは、脇ポケットからピストルを引き抜くと、撃鉄を起こして構えた。
「ワトスン君、彼は、なかなか狡賢い男だから、注意して狙いをつけていてくれたまえ。さて、パイクロフト君。きみが盗難事件の主犯であることも。質屋に仲間を送り込み地下トンネルを掘らせたのも、ホール・パイクロフトという行員になりすまして金庫の暗証番号を盗んだのも、すべて君の策略だね」
「それは、あり得ません」青年は、皮肉に笑うような目でパームズを見つめながら言った。「あの夜は、わたしは副支店長と残業をしていまして、事務室から一歩も出なかったのは支店長も知っているはずです」
「ええ。その通りです」支店長は答えた。
「二階の事務室にいるわたしが、金庫室の犯人たちに暗証番号を教えられるはずがないじゃないですか! しかも暗証番号は一分ごとに変更されるんですよ」
「だからキンドルが必要だったんじゃないのかい」
「どういうことですか?」支店長が聞いた。
■犯行の手口
「実に簡単なことです。キンドルストアで購入した電子書籍は、キンドルだけでなく、PCやMacそれからiPad、iPhoneでも読むことができます。しかも、読んでいる場所を端末間で同期させる機能により、どの端末でも続きから読むことができます。確か、そうだったよね、ワトスン君」
「ああ。ウィスパーシンクのことだね」
「その機能を使えば、金庫室の仲間に暗証番号を教えることができるんじゃないのかい、ジョン・クレイ」
「なんだって!」青年は叫んだ。
「きみが、英国南部を中心にあらゆる犯罪に手を染めている犯罪者ジョン・クレイであることは、地下トンネルの手口からもすぐ分かったよ。まさか、キンドルに本名を登録するとは思わなかったが」
「ああ。もともと犯罪に使うつもりはなかったからな。しかし、暗証番号を伝えた方法が分からなければ、裁判になってもぼくは無罪だぜ」
「あの夜、きみは仕事をしながら支店長の机の上に置いてある認証トークンの暗証番号を、皆の目を盗んで確認した。認証トークンには、6桁の数字と一緒に、残り時間が表示されるから、変更のタイミングに合わせれば、まるまる1分間の残り時間が使えることになる。自席に戻り、パソコン上のキンドルを立ち上げ、『ホイッティカー年鑑』を開く。後は『Go to』メニューから『Location...』を選び、暗証番号をそのままロケーションとして入力すればいい。その間、10秒もかからないだろう。一方、トンネルにいる仲間にはキンドルをわたしておいて、事前に打ち合わせておいた時間に、キンドルで『ホイッティカー年鑑』を開き、[MENU]ボタンを押し、「Sync to Furthest Page Read」を選択するように教えておいた。そうすれば、移動先のロケーションの値が暗証番号ということになる。1分以内にタイミングよくやるのはなかなか難しいかもしれないが、例えば、正時ごと実行するというように決めておけば、何回かやるうちに成功するだろう。夜は長いんだからね」
「そこまで分かっているのなら、どうしようもないな」
そのとき、呼び鈴がけたたましく鳴った。「どうやら、きみの古馴染みのジョーンズ警部たちが到着したようだ」
■事件の教訓
ジョーンズ警部がジョン・クレイを連行し、メリウェザー氏も帰った後で、パームズは言った。
「ねぇ、ワトスン君。今回の事件で犯人の誤算は、あまりにもキンドルが軽くて、薄く、落としたことにさえ気づかなかったということだ。せめて落とした際に壊れたりすれば、われわれは犯人をたどれなかったかもしれない。軽いがゆえに壊れなかったのは、われわれにとって僥倖だったし、犯人には災難だったということになる。
今回の教訓は、デジタルデバイスは今後さらに薄く軽くなっていくだろうが、盗難や紛失について今まで以上に留意しなくてはいけないということだろうね」
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